医療法人真生会 真生会伏木クリニック

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院長挨拶

私が目指す医療

平等でかけがえのない尊い命を
幸せにするために
自利利他の精神で取り組む医療

真生会伏木クリニック 院長 古谷 正晴

人体に興味を持った幼少期。早くから医者を志す

私は広島県出身で両親は自営で布団屋を営んでいました。学校が終わると店番など両親の仕事の手伝いもしていた当時のごく普通の子供でした。一方で、親族に一人も医療関係者のいない医療とは無縁な環境の中で、なぜか物心ついた頃には人体に強い興味を持っていました。6,7歳の時には親に人体の図鑑を買ってもらい、ボロボロになるまで読み込んだ記憶があります。残念ながら買ってはもらえませんでしたが、もっと知りたいと思い、親に人体模型をねだったこともあります。
今思い返せば、5歳の時に肺がんで亡くなった祖父、脳卒中でベッドに横たわる祖母の首から気管切開チューブが出ていたことが強い印象を与えたのかもしれません。もっといえば広島という土地柄ゆえに人の生命に対する潜在的な関心があったようにも思います。
そんな私は小学校三年生には、「医者になる」と決めていました。幼心ながら将来は人の役に立ちたいという想いがあったのです。

人の生き様に興味をもった高校生時代

そうして医者になるべく中高一貫校の広島学院に進学しました。広島県一の難関校に入学した私は、勉強に励みましたが、スポーツは苦手でした。それでも学内のマラソン大会では、下から数えた方が早かった順位もコツコツと自主練を重ね、最終的には9番まで上げることができました。負けず嫌いな性格もあったのかもしれません。
今でもそうですが、当時はとにかく歴史が好きでした。日本史、世界史、特に中国史も好きで、特に歴史上の人物の裏側にある壮大なドラマに強く惹かれていました。なぜこの人はその時こういう行動を取ったのか、どのような気持ちだったのか、思いを巡らせるのです。歴史好きは今も変わらず大河ドラマは欠かさず見ています。
幼少期人体に興味をもっていた私も、高校生時代には人の生き様へと興味が変わっていったのです。

勉強・アルバイトにあけくれた学生時代

高校3年生にもなるとその後の進路を本格的に考える時期となります。弁護士になろうか、医師になろうか研究者になるかあれこれ悩みましたが、やはり医学の道へ進むと決めました。昔から興味のあった人と人の身体を通して多くの人の役に立てること、医学は世界共通で通用すると考えてのことです。
せっかくなら最高峰を目指そうと東京大学や京都大学などを目標に受験勉強し、最終的には歴史ある土地柄や自由な学風・新しいものを取り入れ勉強が出来る環境のある京都大学医学部へと進学しました。研究者の道も考えていたためノーベル賞受賞者が多いことも理由の一つでした。医学部というのは6年制ですが、両親は気持ちよく送り出してくれました。特別裕福な家ではなかったため、今思うと大変だっただろうと思いますが、私の意思を尊重してくれた両親には今も感謝しています。
大学へ入るとこれまでの勉強生活から一変し、半年ほどはタガが外れたように遊びました。中学高校が男子校で勉強ばかりしていたため、その反動もあったと思います。友達に誘われて女子学生と合コンをしたり、雀荘に入り浸ったりしたこともありました。こんな楽しい事があるのかと思いましたが、それは半年限りのことでした。
アルバイトも沢山経験しました。家庭教師に引っ越し、掃除やお弁当屋も経験し思い切り大学生活を満喫しました。大学の講義も一番前の席で聴講し、国家試験前には大学受験とは比較にならないくらいに猛勉強しました。

毎年数百件の手術に向き合う日々

大学卒業後、私は当時最もハードだが花形でもあった消化器外科の道を選択します。研究の前に生身の人間に貢献したいという気持ちが前に立ったのです。1年間の大学病院での研修医生活を経て、赴任先は、早くから経験を沢山積める福井赤十字病院外科に決め、医師としてはまだ未熟でしたが数時間に及ぶ手術を毎年数百件するような生活を4年間送りました。先輩方に指導をいただきながら、目の前の患者さんに必死で向き合う毎日でした。
父の話になりますが、実家は広島市にあり、父は被爆者でした。父は15歳の時、爆心地から2キロ地点で被爆し、建物の柱が吹き飛ばされ、気が付いたら落ちた屋根のちょうど隙間にいたそうです。そして奇跡的に無傷だったのです。父も医者になることを応援してくれていましたが、そんな父も高齢になると入退院を繰り返し何度も手術を受けました。私が父を手術したこともあります。85歳で亡くなりましたが、私が医者になったことをとても喜んでいたことを覚えています。

学位論文は米国肝臓学会誌に掲載。現在の標準治療の基礎に

手術する毎日に目途をつけ、今度は大学院へと進みました。30歳にも迫ろうという年齢でしたが、当時は研究までやってはじめて一人前とされたのです。当直の仕事で収入を得て学費を賄い、日中は研究に没頭する日々。肝臓グループに配属され、肝細胞癌の分子生物学的研究に従事しました。研究論文は米国肝臓学会誌に掲載され、現在の肝細胞癌の標準治療の基礎的研究の一つになりました。大学院卒業後は、京都大学腫瘍外科の助教として勤務しました。当時はそのまま研究を続け教授を目指そうかとも考えていましたが、そんな折、尊敬する真生会富山病院の当時の院長に声をかけてもらったのです。

病院開設に参画。患者さんを笑顔にする医療を追求

真生会富山病院の「『自利利他』の精神に基づいて、安心と満足の医療をめざします」という理念と、それを実現するために新病院を開設するという話に深く共鳴し、39歳の時に富山県に赴任しました。外科と緩和ケアの両方を担当し、病院が発展していくのを体感しながら気づけば22年が経ちました。外来と手術を通して実に多くの患者さんに向き合ってきましたが、次第に手術だけでは治せない患者さんがおられることを感じはじめました。例えば、癌を患い余命がわかると、患者さんは生きる気力が減退し、同時に痛みと戦い続けます。終末期ともなると、多くの医師はどう関わったらよいかわからなくなり、病室へ足が遠のくこともあるのです。私はこの状態に長年歯がゆい思いを抱いてきました。
そうした中で村田久行先生の対人援助論に出会います。患者さんの苦しみに意識の焦点をあてて傾聴し、反復する。この援助的コミュニケーションを通して、患者さんが「わかってもらえた」と実感されたならば、関係の力によって患者さんの苦しみは和らぎ、元気になられるのです。従来の医療技術を用いたアプローチをキュア、関係の力を使って患者さんの苦しみを和らげ、軽くする援助をケアと言います。対人援助論を実践することにより、変わっていかれる患者さんたちに多くのことを教えていただきました。余命1年と宣告された患者さんが私と話をするのを心待ちにしてくださり、お話を傾聴していると痛みが緩和されるというのです。これなら最後まで患者さんのお役に立ち笑顔でいていただける。この10年間はキュアとケアの両方を実践し、沢山の笑顔に出会うことができました。

真の総合診療を提供するクリニックを目指して

令和4年9月、伏木に開設される新しいクリニックの院長に就任しました。これまで実践してきたこと、そして真生会の「自利利他」の精神を形にした総合診療を提供する真生会伏木クリニックです。内科・外科に加えて癌や慢性的な痛みに悩む患者さんを少しでも笑顔にするために疼痛にも対応します。設計から内装・医療機器・コンセプトのすべてに私の想いを込めました。
1階は外来に利用し、2階では様々な用途を想定しています。運動のできるスペースや患者さんがくつろぎながらお話できるカフェ、健康講座やバンドによるミニコンサート、アロマも提供したいと考えています。漢方の処方も行います。住宅街に音楽が聞こえたら、それはきっと伏木クリニックです笑。新型コロナウイルス感染症の対応やワクチン接種も可能です。
患者さんが笑顔になられるのなら、形にとらわれずに今後もチャレンジしていきたいと思います。お身体の不調や原因のわからない痛みなど、お困りになることがあれば当クリニックにぜひお越しください。そしてお話をたくさん聴かせてください。

院長プロフィール

経歴:
昭和35年広島県広島市に生まれる(3人きょうだいの真ん中)
昭和54年広島学院高校を卒業し、京都大学医学部医学科入学
昭和60年同卒業・医師免許取得・京都大学外科学教室入局・京都大学医学部附属病院研修医
昭和61年福井赤十字病院外科に赴任・消化器外科修練
平成2年京都大学大学院 博士課程入学 肝臓グループに配属、肝細胞癌の分子生物学的研究に従事
平成9年京都大学博士(医学)授与。学位論文は米国肝臓学会誌に掲載
平成10年京都大学腫瘍外科 文部教官助手(現在の助教)
平成11年同非常勤講師、滋賀県立成人病センター外科
平成12年真生会富山病院外科
令和4年真生会伏木クリニック
資格・認定:
日本外科学会専門医・日本消化器外科学会認定医
他、日本緩和医療学会、日本ペインクリニック学会、対人援助・スピリチュアルケア研究会、日本整形内科学研究会に所属
趣味:
歴史書を読むこと、将棋観戦(ペーパー有段者)
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